修廣寺は、小田急多摩線・五月台駅から徒歩10分ほどのところにあります。
山号を夏蒐山(なつかりさん)、寺号を修廣寺(しゅうこうじ)と称する曹洞宗の寺院です。
開創は1443年(嘉吉3年)、寺は村の東南に位置する夏蒐岡(なつかりおか)に建立されました。
その後、1520年(永正17年)に現在地に移されたということです。
夏蒐山という山号は、源頼朝がこの辺りで巻狩(蒐)をしたことに由来するといわれています。
大本山は、福井県の永平寺と横浜鶴見区の総持寺、本寺は青梅の天寧寺です。
曹洞宗は、臨済宗とならぶ禅宗の2大宗派の1つで、1227年、道元禅師によって日本にもたらされました。
その後、鎌倉時代にいたって、大本山永平寺の4世、瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)の時に、地方の武士や農民の間に教勢をのばしたということです。
いっさいの仏教は坐禅のなかに含まれるとされ、只管打挫(しかんたざ…ただひたすら坐禅する)が曹洞宗の第一の教義。
そもそも、「禅」とは瞑想することを意味する語で、結跏趺坐(けっかふざ…両足を組んで坐る)して精神を集中させ、無念無想を目ざすことが目的とされています。
さて、この寺は、松澗玄秀(しょうかんげんしゅう)大和尚が勧請開山(神仏の分霊を移して山をひらくこと)、弧岩伊俊(こがんいしゅん)大和尚が開闢開山(かいびゃくかいざん…信仰の地として山をひらくこと)したもの。
本尊は、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、それを守護するお前立(まえだち)として薬師如来が置かれています。
この薬師如来は寅薬師といわれ、十二支の寅年の寅の日に開帳(厨子が開かれる)されます。よって、12年に一度しか拝顔できません。
この「寅」は、弘法大師が一刀三礼して刻んだ薬師如来が寅の日・ 寅の刻に完成したことに由来しています。
開運繁栄、無病息災、病気平癒のご利益があるそうです。
修廣寺第7世住職のときには、徳川家光から朱印地三石九斗を与えられるという栄誉ある歴史を歩み、さらに、第二世および四世が末寺8カ寺を開山、その後2カ寺が廃され現在6カ寺になっていますが、これら末寺を統轄する位置にいるこの寺の格の高さが伺えます。
境内に立つと、大太鼓を従えたかなり目立つ仁王門、階上には五百羅漢が安置されています。
左右にそれぞれ「阿(あ)形像」と「吽(うん)形像」の2体の金剛力士が、筋骨隆々・眼光鋭く構え、仏敵をよせつけない威力をみなぎらせて立っています。
阿形像は怒りの表情、吽形像は怒りを内に秘めた表情を持つ、仏教と寺を守る守護神です。
仁王門の正面奥に本堂があります。
どっしりとした瓦葺の屋根をのせた静謐な外観は、地味な風情ではありますが
庶民に開かれた温かさを醸していました。
その内部は、金色の装飾がほどこされた立派な祭壇が置かれ、本尊の釈迦牟尼仏をはじめとする何体もの仏像が大切に祀られています。
この祭壇の前で、ご住職が寺の歴史をなめらかな口調で楽しく語ってくださいました。
その一つ、「若き日の道元禅師」という宋の天童山で修行する禅師にまつわる法話。
この話は、仁王門の大太鼓の脇に、一場面を再現した石像「天童山の典座和尚と若き日の道元禅師」として残されています。
年老いた典座和尚(てんぞおしょう…台所を司る僧)が真夏の炎天下に椎茸を干している。
傘もかぶらず杖をつき、汗をかきながら辛そうな様子…。
道元が、「他の者にやらせたらどうか」と声をかけると、「他はこれ吾にあらず(これは私の仕事、ほかの者に頼んだら私の修行にならない)」と返答。
さらに、「では、涼しくなってからなさったら…」というと、「さらにいずれの時をか待たん(今やらなくて椎茸をいつ干すのか…)」と返す。
これを聞いた道元は、修行とはどういうことか、生きるとはいかなることかがハッキリ見えてきたという。
私たちも、かけがえのない自己とかけがえのない今をこのように大切に生きたいものです。
境内の南側に、比較的新しい開山堂兼衆寮が整然とした姿で建っていました。
位牌堂とも呼ばれていますが、昔は修行僧の道場として、また明治5年の学制による初めての公立学校、片平学舎、片平学校としても使われたとのこと。
さらに、子女の高等教育のための修廣寺塾(夏蒐塾)として塾生を受け入れる等々、ここは修行と教育の場として大いに機能していたようです。
石の階段を登りつめると、屋根に造作を凝らした鐘楼がありました。
途中、階段から見上げると、石段と緑の木々と鐘楼の一体となった景観が美しい。
除夜の鐘を撞く人々の思いが、音とともに遠く空の彼方へとけこんでいく…そんな澄んだ清らかな音色が、この鐘には宿っているのかもしれません。
《境内に置かれた句碑・歌碑には、歴史に名を残す先賢の作品が刻まれていました。》
手を合わせ たまふ仏へ 手を合わす(荻原 井泉水)
鶏頭の あか伎にしみる ひるの陽を ゆり美多し徒々 野分不久那里 (阿部 鳩雨)
於の徒から 吹きおこる風を さびしめり 松のはや志に 歩み入り津々(橋田 東聲)
我が屍 埋めし塚は 掃かずおけ 雑木落葉は あたたかきものを(中山 徳次)
(参考文献・修廣寺配布資料)
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