歴史散歩・たまのよこやま防人のうた

あさおわが町

 「多摩丘陵の背骨」ともいわれる「たまよこやまの道」は全長24km、
多摩丘陵の尾根筋の上を通っています。
 

東は連光寺向ノ丘、西は津久井郡の三沢峠を結ぶ長大な尾根は、防人たちが歩いた道として知られています。国府のおかれた府中に集められ、そこからいっせいに西へ西へと歩き続ける辛い旅路だったという・・・。

奈良・平安の時代、幹線道の多くは水はけのよい尾根筋を通っていました。水たまりができずしっかりとした地盤、さらに高所にあって敵の接近を察知しやすいという軍事的利点にかなっていたのでしょう。

これは日本にかぎらず、外国にも多くみられました。当時の道路は、ほとんど軍事的用途として建設されますが、やはり水はけのよい見通しがきく尾根筋が選ばれたようです。

このいかにも素朴なよこやまの道という名称は、多摩丘陵が万葉集の中で多摩の横山と詠われていたことに由来しているという・・・万葉の香匂うがごとき命名だったわけです。

中央の石碑には、万葉集におさめられた宇遅部黒女の歌がきざまれています。

家族から引き裂かれ西国におもむく防人たちの行く手には、過酷な任務と絶望が・・・

宇遅部黒女(うぢべのくろめ)
赤駒を山野に放し捕(と)りかにて 多摩の横山徒歩(かし) ゆか遣(や)らむ

赤駒を山野のなかに放牧してしまい捕まえられない。
夫に多摩の横山を徒歩で行かせることになってしまうのだろうか・・・

防人(さきもり)として太宰府(北九州)におもむく夫に、この起伏の激しい多摩の横山を、過酷な旅の始発にしてしまうことの情けなさ・ふがいなさ…そんな妻の心情がしみじみと伝わってきます。

律令制下、大陸からの侵入をふせぐための兵士として、東国から九州北部に防人が派遣されました。3年の任期とはいえ、旅だった人たちが再び故郷に帰ることはなかったという・・・。

愛する者たちとの終のわかれ、哀惜の淵にたつ妻と夫のわかれがたい思いが、せつなく胸をしめつけます。

古代から江戸時代にいたるまで、この尾根筋は東国と西国を結ぶ要路として商人や武士、都の要人、霊場行脚の巡礼者などが行き来していたようです。

その古道は、起伏の多さにくわえ、ところによっては人ひとりがやっと歩けるほどの道幅しかなく、迷路に富んだルートもあるなど・・・旅人にとっては難所のおおい尾根道だったといえましょう。

この尾根筋には、鎌倉古道奥州古道奥州廃道、古代の東海道などの歴史街道が縦横に走り、おなじみ新選組の奮戦記や新田義貞の鎌倉攻めなど、様々な伝説が語りつがれています。

宇遅部黒女(うぢべのくろめ)の歌は、この尾根のもっとも眺望のひらけた防人見返りの峠におかれた石碑に刻まれていますが、この峠は、防人たちが後にしてきた故郷をもう一度ふりかえり、最後の別れを惜しんだところといわれています。

万葉集には、防人とその妻の歌が89種おさめられており、
せつない胸のうちを告白しています。

橘樹群の物部真根
(いわ)ろには 葦火(あしふ)たけども 住好(すみよ)けを 筑紫にいたりて 恋しけもはも

私の家は貧しくて葦火をたいていたけれど、
この上なく住みよかった。
遠く筑紫の国へ行ったら、どんなにか恋しく思われることだろう

返歌として妻の椋掎弟女
草まくら 旅の丸寝の 紐絶えば 吾手とつけろ これの針(は)る持し

一人旅の宿で、もし着物の紐が切れたら、
この針を持ち、私の手と思っておつけくださいまし

筑紫郡の服部於田
わが行きの 息衝(いきつく)しかば 足柄の 峰延(みねは)ほ雲を 見(みと)としぬばね

防人として旅立ったわたしをそんなにまで嘆くなら、
足柄山の稲を延(は)う雲をわたしと思って偲んでほしい

その妻服部呰女
わが夫なを 筑紫へやりて うつくしみ 帯は解なな あやにかも寝も

あなたを防人として筑紫へ旅立たせたあと、わたしは
恋しさのあまり帯を解かず、かぎりなく心乱れて寝る夜がつづいています

(参考・あさお観光協会ガイドの会『黒川の里を歩く』)

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