2012年9月22日~10月14日、生田緑地の日本民家園にある船越の舞台が内部公開されました。これは、江戸末期、三重県の船越に本格的な歌舞伎舞台として建てられたもので、昭和48年に同園に移築されました。国の重要有形民俗文化財に指定されています。
この舞台では当初、村の鎮守に奉納する芝居として村人らが演じていましたが、明治中頃から役者をまねくようになり、村人たちは運営に携わるというかたちで昭和の中頃までつづいたそうです。
船越の舞台は民家園正面入口からはいると一番奥の西門ちかくにありますが、なにしろ起伏のおおい地形、日頃の運動不足がたたります。
なによりも閉口したのは、迷路のような通路。右へ左へと枝分かれしていて、どうかすると民家の庭の片隅をとおるなど…なんとも不安をかきたてる地理です。
途中であった園関係者にフォローされてやっと探しあてた建物は、予想をはるかにこえた簡素なつくり。しかし入母屋づくりの瓦葺屋根は、鬼瓦などを飾った風格あるものでした。
舞台の下手(向かって左)には花道が客席にむかって走っていますが、普段はこれを覆うように金属の屋根がとりつけられ、風雨からまもられています。
興行時にはこの屋根と、建物の敷居にはめこまれている板戸などはとりはらわれ、間口の広い舞台に変わります。
花道という名は、「贔屓から役者へ贈り物(はな)をするための道」というところからつけられたようですが、舞台とは別の場面を花道上に設定できるという演出上重要な意味をもっています。
ここでは、役者の登・退場の際にキメ手の演技が観客の目のまえで披露されるわけですが、手のとどく位置に贔屓の役者でもいたら観客は至福の境地で大喝采でしょう。
舞台の真正面には、ややはなれて桟敷席があり、花道はその間をつないでいます。桟敷席は土を階段上に盛りあげて作られていますが、敷物でも敷くなどして腰をおろしたのかもしれません。
舞台と桟敷席の間にある平坦な土間も、ムシロを敷きつめて観客席としたようです。好きな役者に声かけなどして歌舞伎を堪能している村人たちの姿が目にうかびます。
建物の中にはいろいろな道具がしまわれており、まず目につくのは3枚の障子がはめられた「部屋の背景」、舞台に並べて二重舞台を組むために使う「台」、「格子戸」や「屏風」、その他細々とした小道具が収まっている箱が複数etc.
そして、床に目を落とすと中央に直径6mほどの円形の床
がはめこまれていました。これが回り舞台です。
この円の中央を真一文字に前後二分し、前面で演じている間に裏面では次の場面が準備されてゆき、舞台をまわして前後を入れ替え、次の場面に転換するという形で芝居が進行していきます。
ということは、芝居が演じられていたのは直径6m、半径3mの半円上(残り半円では次場面の準備)、面積にすれば14㎡という狭い空間です。
この舞台から少しはなれたところに奈落におりる階段があり、舞台の真下にでます。
そこには、人の背丈ほどの円筒形の部屋に、4本の丸太が等間隔で天井から垂れれさがっていました。
これが舞台を回すための驚くほどシンプルな装置。この4本の丸太を4人の人間が全力でいっせいに同方向へ押すのだそうです。
筋骨隆々の男たちがタスキをかけ、腕まくりし
て体中汗まみれになりながら嬉々として舞台
を回している光景が目にうかんできますが・・・
灯りのとぼしい奈落では実際どんな情景だっ
たのか…。
奈落というのは、地獄を意味する梵語ですが、江戸時代には照明がなく真っくらで地獄のようだったということから付けられた名称のようです。
はなやかな舞台の真下に地獄のような暗黒の空間があったというこの構図、地獄に支えられた栄華な世界、まるで貧と富を織りなす人間社会の縮図が見えかくれしているかのような…。
ここには、大道具や役者を奈落から舞台へセリ上げたり、逆にセリ下げたりする迫り(せり) もあったようですが、これも人力にたよっていたのでしょう。
さて、舞台にもどり天井を見上げると、足を踏みはずしそうな簀の子状の作業床が両壁に長々と取り付けられているのが見えます。
これは葡萄棚といわれ、ここから雪や花びらの紙吹雪で風情を演出したようです。
棚と並行に幕をつるす桟(さん)が取り付けられていますが、幕は1枚だけでなく、二重につけて手前の幕をおとし、新たな舞台面をあらわす落し幕という手法も使われたということ。
これも回り舞台につぐ、即時にして場面転換させる道具といえるでしょう。
舞台の両袖には上下二段の張りだしがありますが、上手側の上段がタユウザ… 浄瑠璃語り・三味線、下段がハヤシカタ…お囃子、下手側の上段がハナザ…寄付金の管理、下段がシテザ…小道具部屋となっています。
タユウザには語り手と三味線ひき、ハヤシカタには小鼓や大鼓、太鼓や横笛など複数の奏者が座ったと思われますが、このせまい部屋に何人はいれるのか…?
昔の人は現代人より小柄だったとはいえ、どうにも不思議な空間です。
ここには、楽屋が3つ(下手奥のコモリデン 、舞台裏、中二階)あります。興行の準備中に、村人が寝泊まりしたり、役者の支度部屋に成ったり、道具類を保管したり…といろいろに使われていたようです。
建築・改築時の銘板や歌舞伎役者の名がしるされた興行記念の掲額も壁をにぎわし、往時の風格をただよわせていました。
足を踏みはずしそうな中二階の楽屋につづく階段。
興行がつづく間、まるで軽業師のように毎日何十回も往復していたのでしょうね。
たいした技です。
外見上とても素朴で質素なこの舞台ですが、さしずめ様々な意匠が凝らされたビックリ箱といったところでしょうか。
まだまだいろいろなものがでてきそうです。
コメント