向ヶ丘遊園駅から10分ほど歩くと、生田緑地正門が正面にみえてくる。
炎天下では少々つらい道程ではあるが、ここにたどりつくとさっと汗がひく気分。
そこは緑の楽園よろしく、よくそだった様々な雑木がきそって人々を木陰にいざなう。なかなかこんな大きな日陰と緑風をひとりじめすることはできない。
この日この時だけのぜいたくな空間を、ひとり歩きできる幸せが体じゅうにみなぎってくる。
正門からまもなく、右手に日本民家園の門がまえ…
雨よけの瓦屋根をつけた白い漆喰壁の門が、入口を大きくあけて静かに人々を迎えいれてくれる。
門をはいってのぼり斜面を進むと、ほどなく右手前方に待ちかまえている瓦葺きの豪奢な原家。
波間から陽を反射させた魚鱗のように、かがやく灰白色の瓦を屋根にまとって紳士然としたスマートさをみせている。
これと対をなすような左地家の門構えは、なんとも格調高く美しい。
照りはえる白壁はせまくもなく広くもなく…すべての要素が調和的に配されている。
文句なしの被写体にカメラをむけながら、わが撮影技術の稚拙さに思わず顔を赤らめてしまう。
おおきな存在の前には無言でたたずむしかない、そんな心境になる。
ゆいいつ屋根に石をのせた三澤家も、河原を描写したかのような自然石のころがりがアート的でおもしろい。豊かな自然の中に息づいてきた昔の人々は、自然を生活に取り込むことに余念がない。
石がそこにあったから屋根にのせた。
とても自然な成りゆきであり、生活の知恵である。これで台風もこわくない。
蚕影山祠堂(こかげさんしどう)
養蚕の豊作を祈り、養蚕の神 金色姫を祀る
現代人がいつかどこかに置きわすれてきた、本来の生きかたなのかもしれない。
衣食住をわが手でまかなう営みの中にいてこそ、自然は尊い存在となり、天の恵みはありがたく…そして自然との共存が必然となってくる。
しかし、高度な産業・経済の恩恵にみたされた今日の生活は
自然と直結せず、悲しいかな自然への感謝の心がうすれゆく・・・。
さて、起伏のおおい通路をさらに進むと、そこからは東北から関東までの村々の茅葺屋根がつづく。幼い頃よく見かけたあの風景だ!なんて懐かしいんだろう!
隣のおじさんちは麦わら屋根の養豚農家だった。暑い夏の日も、一歩敷居をまたぐとひんやりとした心地よさにつつまれる。そこは自然光の入りにくいうす暗がりの土間、このやんわりとした涼しい空間は土間でなければありえない。今でも頑固にそう思っている。
あのころは、自然を相手に遊び回っていた健康優良児。
豚の餌のドングリひろい、タニシやシジミとり、ザリガニ・フナ・メダカ、芹やヨモギ・桑の実・・・
追憶のかなたに幼ないころの友だち、亡き父母や祖母の顔が浮かんでは消える。
そういえば、イワヒバの植えられた大棟にムシトリナデシコの
種が飛んでピンクの花を咲かせていた屋根もあった。いい眺めだった。
この文化財と指定される合掌造りの家に、今でも居みつづけている人たちがいるという事実も意義深いことである。永いながい時を刻んできて、なお未来へ刻みつづけようとするこの住宅には、人の心を魅了する何かがあるのだろうか。
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